大三島に移住した某薬剤師の脳みその中

生き物らしく生きたい!と思い大三島へ。毎日が冒険。

どうしてもしたいこと

年を経るごとにしたいことが増えている気がする。

昔より少しだけお金に自由ができて、頼りになる人たちの存在を知って、便利な技術や質の高い情報にアクセスすることが簡単になって…あれもこれもしたい。

 

作ってみたいお菓子があったり

行ってみたいところがあったり

描いてみたい絵があったり

会いたい人がいたり

読みたい本があったり

島だからできることももっとしたい。

 

庭に小鳥の巣をかけてみたい、とか、あの作物畑に植えてみたい、とか、昆虫採集や魚釣りしたい、とか、自然の写真を撮りたい、とか。

 

ゲストハウスも「普段通りの営業」はできている、と思う。

けれど、イレギュラーでやっている軽食を提供するイベント、ライブイベントらへんはなかなかできていない。

最近だと、読書会なんかもしてみたいなぁ、なんて思っていたりして。

めいめいに本を持ち寄って、めいめいに読んで、美味しいお茶を提供して、おやつの時間にはみんなでお休みして、とか。

 

消しゴムハンコもしばらく作っていないし

犬の散歩ももっと冒険したい。

 

 

40歳を目前にして、とにかく忙しい。

仕事(薬剤師業のほう)はバタバタ、家の中はガチャガチャ。

娘は5歳。

生意気でかわいい生き物は、日々、「挑戦する」とか「我慢する」とか、そういう大人のアレコレに悩んで、疲れているくせに、かつ、あたらしい刺激を欲している。

一緒にいろんなことをしたいけれど、いかんせんこのオチビさんはすぐに飽きたり、ものすごい集中力をへんなタイミングで発揮してきたりする。(ハサミで紙を紙吹雪大に切るときは本当にすごい集中力。おかげで我が家はあちこちに紙切れが落ちている。)

なかなか思い通りにはいかない。

 

 

思い通りにいかないアラフォーは悔しくって悔しくって、本を読む。

疑似体験。

最近読んだ本だとこれ、面白かったです。

図鑑を見ても名前がわからないのはなぜか?: 生きものの“同定"でつまずく理由を考えてみる

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章ごとに「あるあるぅ、わかるぅ、ほうほう、なるほど」でした。

たぶん、「あの鳥なんだろ」「この草なんだろ」というちょっとした疑問が世界を美しくするのよね。

人間はものに名前を付けないと認識できない生き物だから、同定は人間の世界の認識そのものだと思います、いい本だった。

 

 

つらつら、つらつら。

今までで一番影響を受けた講義は?

小学校、中学校、高校、予備校、大学、そして塾などの習い事、卒後のいろんな研修…いわゆる「講義」や「授業」と言われるもののなかで、一番影響を受けたのはなんだろうか。

 

私は大学の、とある授業だったように思う。

 

それは薬害スモンの話だった。

 

部活にバイトに勉強に旅行に…と、とにかく気の多い大学生だった私は、授業の欠席こそしないものの、ほぼ内職したり、眠気に素直に従ったりしている生徒だった。

なので、授業の後半は基本的に聞いていないことが多くて、友達のノートと、奇跡的に得意だった「テスト前の詰め込み」でなんとか単位を取っていた。

たぶん理系で、しかも、基本は教科書至上主義(目標は国試合格なのでそこだけはどんな変な教授がいてもあまりブレない)だったからそれなりの成績で卒業できただけで、ヘンな教授の独特な世界観や、講義でぽろっと言った言葉をそのまま理解しないとどうにもならないような専攻だったらまず間違いなく落第していた気がする。

 

その日も私の魂は授業中にすっかり抜けていた。

天気の良い日で、暑くも寒くもなかったように思う。

講義の前半はあまり記憶がない。

 

しかし、後半は違った。

その日、普段は飄々としたその教授は珍しく怒りに満ちた声でスモンに関して熱く語った。

 

スモンというのは、日本最大の薬害と呼ばれている「薬が原因となった神経障害等の病気」である。

海外ですでに有害であることが分かっていたキノホルム、それを当時の厚生省はなかば容認する形で見逃し、1万2千人を超える人々が歩けなくなったり、見えなくなったりして取り返しのつかない絶望を一生味わうことになった、というのがスモン薬害である。

(これを機に薬物の安全性や有効性をきちんと評価・共有するようになっていったのは当然の流れである。)

 

とまあ、上記のようなことはどこにでも書いてあるし、知識としては別に特別なものではない。

しかし、そこからの教授の話は違った。

 

薬害の犠牲になった知人の話(若くして下半身の感覚を失うことの絶望、原因不明の奇病に対する周りからの差別、本来防げたはずの事象発生に対する言葉にもならない思いなど)を一通り話して、こう言った。

 

「薬はリスク、と、この業界にいれば何度も聞きます。実際そうです。そして、患者さんの人生の直前でリスクを最小限にしたり、防いだりできるのがあなたたちのほとんどがこれからなっていく臨床薬剤師です。」

 

 

似たような話は薬学部にいれば何度も聞く。

けれど、その日の教授は顔を赤くして、冷静で、それでいて激高するような調子でそう言った。

 

 

「幼少期からの夢」みたいなキラキラした感じで薬剤師になりたいと思っていたわけではない、不真面目でちょっと器用にテストを乗り越えてきた私を殴りに来る、そんな講義だった。

 

 

結局、私はその教授の研究室に入って、卒業をしたわけだが、あんなに昂った教授の顔はその後見ることはなかった。

 

 

不真面目でおっちょこちょいな臨床薬剤師ではあるが、「患者さんの人生の直前でリスクを最小限にしたり、防ぐ」ということだけは忘れずに仕事しているつもりである。

 

 

尤もらしいことをこれ以上書くと明日からが辛くなりそうなので、おやすみなさい。

 

 

高齢者の医療費に関して思うこと

とにかく難しい。

 

現在、基本的に高齢者の医療費は収入に対してナンボ、となっている。

 

なので、若い人たちよりバチクソ資産を持っていて、めちゃくちゃリッチな高齢者でも、年金暮らし(資産あるからべつに無理して働かなくても大丈夫だし)だと「低所得者」となるから、自己負担にはかなりの補助というか福祉的配慮というか、そういうのがもろもろかかってきて、お支払いは1ヶ月分のお薬(ビニール袋パンパン)で1000円です、みたいなことになってくる。

そもそも1割負担だし。

 

若い人だとそもそも3割負担だし、全く働いていない人ってのもそう多くないので、日々の暮らしは相当しんどくても、貯金はなくても、所得税を払う程度に稼いでいる人なら1週間分の風邪薬程度でもほぼ間違いなく1000円以上にはなってくる。

 

あと、生活苦しいから、と年老いてからも働き続けると、収入ありますよねー、自己負担金増やしまーす、ってなるのも辛い。

インフルエンサーみたいに「どんどん生保使えばいいんです」とはいかないのが事実で、ナンボか働けたり、ナンボか車や家があったりしてもいけないし、本人の意向や家族の考えも大きく関わるからそう簡単ではないのは理解できる。

生き甲斐として仕事してる人もおるわけで、収入あったらアカーン、ってのも変な話。

働けるうちは社会との接点はあった方がいいもんですし。

ボケるでな。

(働くとペナルティー、的なのは認知症大国にとってどうなんかね。)

 

このへんがもう本当にどうしたらいいのか分からない。

 

資産を一元的に見る手段があればいいけれど、それって恐ろしい事態でもあるし、かといって、日々の暮らしに青息吐息、結婚もできない子供も持てないとにかく余裕のない若者から税金むしり取ってリッチな悠々自適シニア層を養うのもおかしい。

 

老後を思って、家族に迷惑はかけまいと一生懸命つつましやかな生活をしてきたシニア層、結局関係ない国民のおんぶに抱っこで老後を暮らしているパターン、結構多い…というか、最近特にそれをよく見る。

 

今の高齢者、ある程度は今後の少子高齢化とか、バブル崩壊とか、もう見えていた世代だから、貯めるものは貯めているわけよ。

 

 

分かってますよ、もちろん。

カネモチ若者もいるし

ビンボウ高齢化もいるし

収入が一般的に乏しくなる高齢者を若者が支えよう!というのは必要だしありがたいシステムだと思う。

そこに文句言ってるわけではないのよ。

 

ただ、余った資産が結局金持ち一家に注がれて、貧乏人は貧乏人、金持ちは金持ちで格差がゴリゴリ広がる、と思うと、相続税は実は国全体の児童福祉や教育に回すべきなのでは、と思ってしまう。

 

相続税って国家に入るから、使途は勝手に決められる予算なのよね。

いくらかはそうあるべきだと思うけれど、世代から世代に受け継がれていく性質上、ある一定の割合は世代をつなぐことに使われるべきではないのかなー。

 

今も使われているけれど、明らかに比率が低すぎるし、そのときの流行り廃りで外交だ地方だなんだかんだとフワフワ使途が変わりやすいから、なんか納得がいかない部分があるのよねぇ。

 

もや、もや。

思い出は古銭のように

思い出が妙に大事に感じられることが多くなった。

 

恋心なんかは特にそうで、時が経てば経つほど甘く感じられたり、当時苦かった記憶も味わい深く感じられたり。

 

目が合うことが多いなぁ、と思ったら、それなりに仲良くなれたささやかな恋(友情に毛が生えた程度の)のことだったり

 

今考えても何故あんなに好きだったのか分からない、特に何もそれ以上エピソードのない、親しい友人にすら公言しなかった、あの人へのあこがれ、だったり

 

異なる学校に進学して自然に消滅した微笑ましいお付き合い、だったり

 

その他いろいろ。

書き出してみて、自分で思っていたより色恋沙汰が多かったことに驚く。

 

 

古銭のように、往時の輝きよりも今の存在そのものに価値がある、そんな記憶が増えた。

古銭は古銭のままどこかにあたためているけれど、とっくのとうに現在の貨幣は変わっている、そんな感じに似ている。

価値がわかる人には垂涎ものの古銭もコンビニで出したら訝しがられるか断られる、みたいに、あの時を生きていた私から見ると思い出たちはキラキラして見えるのに、今それをエピソードとして垂れ流しても「ありがちな話」なんだろう。

 

別に火遊びしたいとか、今がつまらない、ということではないんだけれど。

加齢かなぁ。やだなぁ。

薬剤師の使い方

よ~~~~~く聞く話として

「薬剤師なんて薬の袋詰めをしているだけ」

というのがあります。

 

まあ、調剤薬局で働いている実感として、たしかに仕事の1/5ぐらいは袋詰めかもしれない。

そこは認めます。

 

でも、よく考えたら、そもそも論としてですよ、

「みんな薬剤師の使い方を知らない」

んだと思うんですよ。

 

病院で処方箋をもらって、

薬局に持っていって、

待ってたら薬が出てきて、

ありきたりな説明を聞いて、

お金を払って帰る。

 

それだけなら、印象としては「薬剤師って薬を袋詰めしているだけ」って感じだと思います。

 

 

でも、案外薬剤師って勉強してたりするんですよ。

利用しないと損!

 

まず、6年間も学校に行って、最低限の生物、化学、物理、数学、医療に関する法律や病気に関する知識は一度は身に着けています。

もちろん現場に出て使わない知識は忘れていきますが、ベースとして比較的網羅的に学んでいるのは確かなことです。

そうじゃないと国試に落ちる。笑

 

膨大な量の薬のなかでも特に自分が良く取り扱うものの基本的な効能や使用法ぐらいは理解していますし、その数は100品目や200品目とかいうレベルではなくて、かなり小規模な薬局でも500品目、大きい薬局だと1500品目ぐらいは日常的に取り扱っています。

 

お医者さんと違って、「私は外科!」とか「私は内科!」といった専門分野はないので(対応してきた処方箋の内容や勉強してきた内容によって理解の差はありますが。)、医師ほどの知識の「深さ」はないにせよ「広さ」はあります。

 

 

ここで提唱したいのは、「薬剤師に質問する」ということ。

なんでもいいんです。

「なんでこの薬が出たん?」

「テレビでやってるあの健康食品、どう思う?」

「この薬って何の薬?」

「夫と同じ病気なのに私は違う薬を飲んでいるのはなぜ?」

などなど。

 

大混雑している薬局や、時間帯では十分に対応できないこともありますが、ちょっと暇そうな時間だったら対応してくれると思います。

というか、「さっさと出してくれて何も答えてくれない」のがいいのならそういう薬局や薬剤師のもとに通えばいいし、「質問に真摯に答えてくれる」のがいいのならばそういった薬局や薬剤師のもとに行けばいいんです。

患者さんによって希望は違うと思うので。

 

で、相談しやすい薬剤師や、相談したときに納得できる返答をしてくれる薬剤師を見つけておくと何かと便利です。

身近な健康相談相手として、たぶん、たぶんですよ、隣のおばちゃんや、怪しい雑誌の宣伝なんかよりはずっと正確だし、個々の状況に応じてきちんと対応してくれると思うんですよ。

 

たとえば

 

「グルコサミンやコンドロイチンが軟骨のすり減りにいいって聞いたけれど、実際どうなんかねぇ?」

なんて聞かれたら、私なら、

「効く、という信憑性のおけるデータは出ていません。理論的にも胃や腸でバラバラにされているはずで、軟骨成分を飲んでもそれが軟骨になるわけではないと思いますよ。よっぽど栄養失調でタンパク質とかが不足しまくっているとかならば栄養の補助にはなるかもしれませんが、それも普通に肉や魚食べたらいい話ですし、高いお金払ってわざわざ軟骨成分しか含まれていないサプリを取ってもねぇ…。おまじないとして飲む分にはまあそう大きな副作用も多数報告されているわけではないのでいいんじゃないですか?」

とか身も蓋もないことを平気で言うタイプです。

 

それでも、「相談してよかった」といわれることも多いですし、「はっきり言ってくれるから納得する」という方とは割と良好な関係を築けていると思います。

もちろん、精神的に疾患を抱えていたり、ご自身での判断が難しそうな方にはこんな言い方はしませんが。

 

 

処方に関しても「良い」とか「悪い」という判断はしませんし、そんな言い方は絶対にしませんが、

「こういう検査の結果を重視するとこの処方がされることが多い」

「この薬にはこんなメリットがあるのでおそらくそういったことを先生は重視しているのでは?」

「最近の治療方針ではこういったデータが出たという報告からこの組み合わせで処方を組み立てるのが一般的」

といった言い方で、なるべく納得して薬を飲んでもらえるように「聞かれれば」説明をしているつもりです。

 

 

 

そうなんです、「聞かれれば」なんですよ。

あんまり聞きたくない人にわざわざ長い説明をするのはかえって逆効果なので。

聞いてほしいところすら聞いてくれなくなるので。

最低限のことを質問・確認して、説明・注意して、ハイ、さようなら、のほうがいいんです。

 

だからこそ、ぜひ、薬剤師に「質問してほしい」んです。

質問されなければ真価を発揮しにくいんです。

 

 

 

いろいろ質問されたら、

「どうしても薬の数を減らしたいならばコレとかコレは優先順位としては低そうなので、先生と相談してみる価値はあるかもしれません。あと、これは実は粉じゃなくて錠剤もあるのでそっちのほうが飲みやすいかも?もしよかったら先生にお手紙書いておきますよ??」

とか

「こういった運動とか食事とか習慣を変えることが症状改善につながる可能性があるので、試してみてもいいかもしれませんよ。」

なんて返答をすることもあります。

(こういった内容になると医師に処方に対する難癖ととられる可能性もあるので、患者さんが板挟みにならないようによく考えて、状況を見たうえで言うようにはしています。)

 

 

 

薬剤師も個々のシチュエーションもさまざまなので、いろんな返答のパターンがあります。

そこで大事なのは、その返答をきいて「この薬剤師は使えそうだ」と思うか、「この薬剤師はポンコツ…」と思うか、そういった素直な気持ちだと思います。

 

 

 

たとえば、私の返答は正直やさしさには欠けることが多い、と自己評価しています。

先述のようなやりとりでも、「膝の痛み、つらいですよね」とか「最近よく宣伝してますもんね、頼りたくなりますよね~」とか言えたらいいのに、どうもそういうフワッと優しいセリフはあんまり出てこないほうです。

まずは受容、傾聴…心に留めてはいますが、まあ、素質や性格の問題もあるので、おっとり優しい系薬剤師にはおそらく一生なれません。(見た目の問題も大きいですよね。人は見た目が9割というのも事実。)

 

それが嫌な患者さんはそれはそれでいいと思います。

相性って絶対あるので。

人でも動物でも物でも。

 

 

 

気に入った薬剤師は「かかりつけ薬剤師」にしてもらえると嬉しいです。

 

「かかりつけ薬剤師」は制度としても実はあるんですよ。

要は指名料を払えば基本その薬剤師があなたの服薬情報を一元的に管理しますよ、といったものです。

ですが、必ずしもこの制度上の「かかりつけ薬剤師」を使ってください、ということではありません。

(もちろん指名料払ってまで私を使ってくれる患者さんには感謝感激雨あられですが。あ、指名料は別にその薬剤師に払われるものではありませんよ。あくまで「一元管理」の手数料です。)

 

いつもの薬をもらいに行くときに、手が空いてそうな感じなら「お気に入り薬剤師」に声をかけて、ちょっとした質問をしたり、体調を伝えたりしてくれると嬉しいんです。

身近な健康相談相手としてうまいこと薬剤師を使ってほしいなぁ。

そう思ってやまないのです。

沸々とした感情

たまーに湧き上がる沸々とした感情がどういったものなのか、いまだによく分かっていないのでとても困る。

 

 

そもそも、前提として、私は自分の周辺1メートル以内ぐらいの事にしか興味がないし、それより外のことが気になる時は厚い壁に潜望鏡の様なものを突き立てて見ている感覚がある。

 

そのため、基本的には感情はそこまで揺れ動かないことが多い。

 

潜望鏡で見る世界は自分で選べるので、あまりにも心を揺り動かされることからは、もはや生存本能的な感じで目を逸らしたり、潜望鏡を壁から引き抜いてしまうから、というのが一つの理由。

潜望鏡で見る世界は、音や、匂いや、触感など、色々なものが欠けていて、不完全なものだから伝わりにくい、というのがもう一つの理由。

 

潜望鏡から覗いた世界に安直な感想を抱き、一丁前に意見したりすることはあるけれど、ダイナミックな心の動きというものは、正直、ない。

 

 

もちろん、壁の中の事件、世界から見たちっぽけなアレコレには涙も流すし大笑いもする。

けれど、いかんせん範囲が狭いので、そこまで事件の発生頻度は多くない。

壁の中に自ら入れるものは厳選に厳選を重ね、快適なものが多いし、意図せず放り込まれる不快なものはなるべく排除するなり埋めるなりしようとするので、その時はそちらの作業に気が取られて、心ここに在らず、になる。

よって、感情の動きはあまりない気がする。

 

 

前述の沸々とした感情は、何やら大変強いもので、壁の中の小さな私を大きく揺さぶり、熱くする。

壁の中はほどほどに快適で、壁の外を見るべくやたらと潜望鏡を立てている状況でもなく、これといって大きな事件もないのに。

 

 

可能性の一つにあるのは、壁の中の排泄物が発酵した、というもの。

いろんな感情や感想の澱や、それこそ生きていれば出てくるフケのような老廃物、そんなものが狭い壁の中で腐って、熱を持って、心が炙られているようになっているのか、なんて思ったり。

 

 

でも、やっぱり何なのかよく分からない。

頑張りたいような、怒りたい様な、壊したい様な、そんな感覚。

 

 

 

不惑はまだ遠い。

医薬分業ウゼェ論に対する見解

医薬分業ウゼェ論がけっこう出ているので、ちょろっと個人的な見解をひけらかします。
異論は大いに認める。

 

 

 

医薬分業のはじまりは神聖ローマ帝国のフリードリヒⅡ世(1194~1250年)が毒殺を怖れて、主治医の処方した薬を別の者にチェックさせたのが始まりと言われているけれど、改めてこれ、結構大事やん、と思うんですよね。

 

死亡診断書を唯一書ける存在である医師が、薬を自分で扱えたら…仮に意図的な毒殺でも「自然死でーす♪」と書いたらハイ完全犯罪の出来上がり。

 

もちろん、今の医師達にそんなヤバいヒトはおらんと思っているけれど、「不自然な処方」に歯止めをかけることは必要だし、医師が社会的にも力を持っている以上、ある程度知識を持ちつつ権利を保障された存在が「それはアカン」と言わないと捻り潰される可能性もあるわけで、「お互い頑張りましょう」というテイで見張り合いをしているのが一番平和なのかなと思っています。

 

医薬分業にすると薬局が遠い!
院内薬局でええやん!
…というのは尤もで、特に子連れの時とか身体的に移動が辛い時などはマジで院内薬局にしろや!と思うのは事実です。


(院内処方、ビビらす訳では無いんですが、薬剤師おらんところのやつ、たまにありえんミスがあるので気をつけてください。薬剤師がいたら良い、というよりは、チェック体制が薄いのは事実なのでミスが起こりやすいし見つかりにくいんですよね。)

 

これに関しては「家の近くのかかりつけ薬局で!」と国はうるさいですが、海の向こうのホームドクター制などを参考にかかりつけ薬局選定を半ば強制にしないと無理だと思います。


かかりつけ薬局構想は悪くないと思うんですよ、施設配達とか在宅とか今後避けて通れないことも色々ありますしね。


でも、「いろんな病気であっちこっち病院かかってそれぞれいろんな薬局行っている人」が急にウチに来て配達在宅ヨロ!となってもそれは無理ってもんです。

 

現実的に考えて、配達も「隣の県まで行きます!」みたいなのも無理だし、すぐに対応出来なきゃかかりつけの意味もないので、ある程度のエリア内でかかりつけ薬局を指定して毎回来てもらう、みたいなシステムにしないと実効性はないままだと思います。

 

 

そんなこんなで、医薬分業って見張り合いという意味で必要だけど、利便性は確かに難あり。かかりつけ薬局は構想的には悪くないけど実効性が薄いからなんとかならんのか、といった気分です。

 

まあ、もちろん、AIがもっともっと進化すれば、見張りなんてAIにさせても良いんですが、そうなってくると診断もAIにしてもらったほうが良くなるわけで、医師も知識労働者というよりは肉体労働者になってくるんじゃないでしょうか。

 

その時薬剤師は何してるんですかね。
たぶん配達屋とかの肉体労働者になっているんでしょうね。

 

そうなったらたぶん私は適当に見切りをつけて子供や生き物や草花を育てるほうにシフトすると思います。


大三島移住はその為の布石なんだよフハハハハ!

なーんてね、もちろんそんなこと何にも考えちゃいませんでしたよ。笑