大三島に移住した某薬剤師の脳みその中

生き物らしく生きたい!と思い大三島へ。毎日が冒険。

こどもの成長

腹立たしいほど早い。

 

 

どうしても手が離せない時に「ごめん!そこのタオル取って!」なんて言ったときに頭の中の子供はまだ「そこってどこ?」とか「とったよ~(持ってこない)」とか言っている。

現実の子供はとっくに「はい、どーぞ」なんて言いながら持ってきていて、「ありがとう」と言えば得意げな顔すらせずにパッと自分の世界に戻っていったりしている。

特別なお願いでもなんでもないから、確かに大人のお付き合いでもこういった場合は「どういたしまして」なんて改めて言わないよな、なんて思いながら子供の背中を見送る。

 

もう少しこどもの時間を味わいたいけれど、いつまでもこどもでも困る。

こちらもそこそこ歳を感じるわけで、一人で生きていけるようになってもらわねばならない。

でも、もう少し、こどもの時間を味わいたいなぁ。

タイム感に関して

音楽でも人生でも一緒な気がする。

 

 

 

時計が嫌いだ。

時計の「刻む」時間が大嫌いだ。

 

時計というのは残酷にも全世界で同じ時を刻んでいる。(時差はあるが、泣いても笑っても1分は1分だし、正午は太陽がほぼ南中する時刻である。通常「日本の正午」は「アメリカの正午」と同等の時刻だと考えるであろう。)

 

これがどうにも理解できないし、ノれないのである。

 

本来、時間というものは「流れるもの」だったり、「ゆらぐもの」だったり、「同調するもの」だったり、「分かれるもの」だったりするのではないか。

1歳の1時間と80歳の1時間は絶対に違うし、空腹の1時間と満腹の1時間も違う。

今日の正午と昨日の正午は違うし、私の正午とあなたの正午も違う。

 

一緒に生活したり、同じ時を過ごしたり、一方が一方を強く意識して合わせに行ったときにはじめて互いの時間が同調して、同じ流れに身を任せることが、本来の「調子があった」状態だと思う。

 

自分の調子をとりながら生きたいし、何をするにしても調子に合わせてやりたい。

というか、時計によって作られた調子に合わせることが絶望的に下手くそで困っている。

 

私も社会人という道化をしているので、〇日〇時までに××をする、となれば、当然「1日2時間ぐらいやれば終わりそうだ」とか「〇日までにココまで、〇日までにはココまで終わってたらいいはず」とか、逆算をするわけだが、もう、絶望的にこれ通りにならないのだ。

もちろん、アクシデントに備えてバッファーはとってある。それぐらい知っている。

なのに、うまくいかない。

 

まず、いっぺんノってしまえばあっという間に終わってしまう。

あっという間におわってしまったら「終わりました」と報告しないわけにもいかない。

そうすると、褒められるが新しい仕事を振られる。

しかし、あたらしい仕事にノることができないことも多い。

 

そして、ノらないといつまでも終わらない。

なんとか締め切り前にやっつけるものの所詮やっつけ仕事で満足感は全くないし、他人からは「ムラがある」という評価になる。

 

たまたま数回いい塩梅にノッてしまったときなどは悲劇だ。

「すごいデキるときはデキるのに、デキないときは本当にデキない人」という評価はもはや「ぱっとしない人」より爆弾扱いされてしまう。

 

こうして痛い目に遭ったら、こんどは保身に走る。

ノリにノッて爆速で仕事を終わらせても、期日よりちょっと前までそれを隠しておくようになる。(「暇そうな人」に見えないように取り繕うことが上手になる。)

どうもノれない時は本当の締切より前に仮締め切りを置いて、人から見ると「謎に尻に火がついている人」になる。(自分を本気で騙すようになる。そうじゃないと本締切直前まで持ち越すことになる。)

どっちもあんまり精神衛生上よろしくはない。

 

 

仕事のスケジュールって、時計が刻む時間以外のリズム感が感じられないことが多い。

畑の仕事、1日の食事や振る舞いなどは気温や体が作り出すリズムに自然に乗っていればそこまで違和感なくできる。

でも、仕事はそうはいかない。

〇月〇日までに出す書類は、あくまで〇月〇日までに出すほかない。

暖かくなったらやろう、でもなければ、眠たくなったらやめていい、でもない。

不自然だし、辛い。

 

 

スタジオで作りこまれた音楽はタイムはドンカマ(最近はクリックというらしいけれど、私はドンカマと聞いて育ってきたからドンカマのほうが親しみがある)に沿ってできているから、揺らがないし、ズレた奴が悪い。ピシッと合うのは当然。

一方、過去のレジェンドの録音などを聴くと、わりと平気でズレるし、走ったりモタったりもする。でも、少なくとも「こういうビートを出したい」というのは強烈に出ているし、「合っている奇跡を楽しむ」感が強いように思う。あと、「自然に合わせられる」のがレジェンドがレジェンドたる理由の一つなので、そうそう事故は起きない安心感があるのは断っておかねばならないだろう。(趣味のミュージシャンは私もそうだがそうそう簡単に「合わない」のである。)

 

どっちが良いとか悪いという話ではない。

現代的なのは「合うのが当然」な音楽だと思うし、「合っている奇跡を楽しむ」みたいな悠長なことを言っていられないような「アタリ」を永遠に作り続けるしかないような業界だとも思う。

過去のアナログな「せーの!」で合わせるようなものは現代の整然としたものに慣れた人には雑然とした世界に見えると思う。

 

私は「せーの!」の奇跡が好きだが。

 

 

今の若い人たちみたいに、Googleカレンダーでちょくちょくリマインドを設定し、それ通りに乱れなく生活を「合わせる」のがストレスでもなく、なんなら初期のスーパーマリオのように所定の場所でピコーン!とコインゲットしていくような満足感すらあるような人たちが羨ましい。

(もちろん全員ではないと思うけれど。そういう人が割と多いことは最近知った。)

 

自分の思い通りにならない、勝手に伸び縮みする時間に「振り落とされないようにうまいこと乗る」ような、非効率なことは流行らないらしい。

けれど、もう、それでここまで来てしまったからな…そう簡単に変わるものでもないのだろうな、と諦めの気持ちが9割、なのである。

 

 

2025年 所感

毎度おなじみ年末所感でございます。

半分凍結状態のブログがくそ寒い年末年始だけ融解してですね、ちょろっと所感をお漏らしする、そういうやつです。

 

 

 

仕事:

管理薬剤師業務にも学校薬剤師業務にも多少は慣れて、つつがなく対応できるようになった…でしょうか。

とはいえ、中身は相変わらずポンコツなので、何が変わったかというとタスク管理とリスク管理が多少はオトナになった、ということかもしれません。

・重たそうな仕事は早めから警戒してちょっとずつ手を付けておく

・長引いでもなんとかなるようにスケジュールを組んでおく

・軽そうな仕事は爆速で片づける

・忘れようとしても忘れられないようなシステムづくり(LINEのリマインくん、googleカレンダーのアラーム、首から紐でつるしたメモとペン、散逸するあれこれを最終的にすべて手帳にまとめるよう一本化、絶対忘れるという自信は持つが絶対覚えておけるという驕りは捨てる、など)

・急ぐ・急がない/重要・重要ではないがやりたいの2軸思考でToDoを定期的に棚卸する

・できる、あるいはそれが好きな人に任せるものは任せる

・そもそもできないこと、嫌いな仕事は受けなくて大丈夫そうならば受けない

・どうしてもそういう仕事を受けるときは仲間を見つけておく

・得意、好きな仕事は各方面にアピールしておく、積極的にもらう

など、いわゆる意識高い系の人が胡散臭いHow to本に書いていそうなことを愚直にやっているだけといえばそれだけです。

まあ、でも結局そういう当たり前のことが大事なのかもしれません。

変なプライドは捨てて大丈夫。

 

家庭:

夫氏に頼りっぱなし。

子供に過度の期待をしている。

かもしれないです。反省は反省ですね。できることとできないことはありますが。

あえて書く必要はないので家族とまた相談しながら来年を過ごすのみ。

 

その他:

祖父が亡くなりました。

すっきりするほど泣かせてくれたので(自分でも驚いた)、何か持って行ってくれたような気がします。

医療業界にいて、関わりがそれなりにあった患者さんを見送ることも珍しくはないのですが、慣れるようなものでもないですね。ちょっとほっとした。(自分が人間性を失っていなかった、ということに)

 

体重を落としました。半年かけて、だいたい15キロぐらいですかね。

歳も歳なので、健康が結構な重要課題。

「体重を落とす」ことだけで言えば、盲目的に「食べない」「消費する」とかでもわりと簡単に成功すると思うのですが、「一生適正体重でいる」ことを目標にすると自分を見つめなおすほかないんですよね。

何にストレスを感じているのか、何が弱いのか、何に強いのか、何ならできるのか。

今年はそこに関しては半年間まともに自分に向き合った実感があって、そういう意味ではとても成長したし、自信を得た部分もあります。

 

今年はバンド活動がそこそこできて、反省も収穫も多め。

夫氏は苦々しく思っているかもしれませんが。

ライブはLIVE。

 

高知に家族旅行で行きました。

粗忽ミスもありましたが、なんかいろいろ考えて、感じた旅行になりました。

ブログにしようと思いましたが面倒になって折れました。

そういうことです。

 

本をよく読みました。

といっても流し読み、一部読み、繰り返し読みなどもあるので、あたらしい本を通しで読めているペースとしてはとてもゆっくりですが。

でも、久しぶりに活字が知識や経験になっている感覚があって、あ、読書って、これこれ、と思い出した感じがあります。

たぶん2026も結構読むんじゃないでしょうか。

すでに積読はかなりあります。

 

地域とのかかわり方に悩んだり、なるようにしかならんと思ったり。

多少は背負いたい気持ちはあるけれど、核家族には難しすぎるし重すぎるものも多い。

島に古くから住む人たちは、近くに親戚がいて、一緒に商売をやって、頼れる人がいたり昔からそうやってきたという経験や実績がある。

移住者としての悩みなので、わかってもらおうとも思っていないし、分かってもらえるとも思っていませんが、やっぱり悩むことは悩むので、このぐるぐるはやはり嘘偽りのない気持ちです。

 

 

まとめる気もない所感ですが、備忘録のようなものなので許してください。

皆様、今年もありがとうございました。

よいお年を。

どうしてもしたいこと

年を経るごとにしたいことが増えている気がする。

昔より少しだけお金に自由ができて、頼りになる人たちの存在を知って、便利な技術や質の高い情報にアクセスすることが簡単になって…あれもこれもしたい。

 

作ってみたいお菓子があったり

行ってみたいところがあったり

描いてみたい絵があったり

会いたい人がいたり

読みたい本があったり

島だからできることももっとしたい。

 

庭に小鳥の巣をかけてみたい、とか、あの作物畑に植えてみたい、とか、昆虫採集や魚釣りしたい、とか、自然の写真を撮りたい、とか。

 

ゲストハウスも「普段通りの営業」はできている、と思う。

けれど、イレギュラーでやっている軽食を提供するイベント、ライブイベントらへんはなかなかできていない。

最近だと、読書会なんかもしてみたいなぁ、なんて思っていたりして。

めいめいに本を持ち寄って、めいめいに読んで、美味しいお茶を提供して、おやつの時間にはみんなでお休みして、とか。

 

消しゴムハンコもしばらく作っていないし

犬の散歩ももっと冒険したい。

 

 

40歳を目前にして、とにかく忙しい。

仕事(薬剤師業のほう)はバタバタ、家の中はガチャガチャ。

娘は5歳。

生意気でかわいい生き物は、日々、「挑戦する」とか「我慢する」とか、そういう大人のアレコレに悩んで、疲れているくせに、かつ、あたらしい刺激を欲している。

一緒にいろんなことをしたいけれど、いかんせんこのオチビさんはすぐに飽きたり、ものすごい集中力をへんなタイミングで発揮してきたりする。(ハサミで紙を紙吹雪大に切るときは本当にすごい集中力。おかげで我が家はあちこちに紙切れが落ちている。)

なかなか思い通りにはいかない。

 

 

思い通りにいかないアラフォーは悔しくって悔しくって、本を読む。

疑似体験。

最近読んだ本だとこれ、面白かったです。

図鑑を見ても名前がわからないのはなぜか?: 生きものの“同定"でつまずく理由を考えてみる

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章ごとに「あるあるぅ、わかるぅ、ほうほう、なるほど」でした。

たぶん、「あの鳥なんだろ」「この草なんだろ」というちょっとした疑問が世界を美しくするのよね。

人間はものに名前を付けないと認識できない生き物だから、同定は人間の世界の認識そのものだと思います、いい本だった。

 

 

つらつら、つらつら。

今までで一番影響を受けた講義は?

小学校、中学校、高校、予備校、大学、そして塾などの習い事、卒後のいろんな研修…いわゆる「講義」や「授業」と言われるもののなかで、一番影響を受けたのはなんだろうか。

 

私は大学の、とある授業だったように思う。

 

それは薬害スモンの話だった。

 

部活にバイトに勉強に旅行に…と、とにかく気の多い大学生だった私は、授業の欠席こそしないものの、ほぼ内職したり、眠気に素直に従ったりしている生徒だった。

なので、授業の後半は基本的に聞いていないことが多くて、友達のノートと、奇跡的に得意だった「テスト前の詰め込み」でなんとか単位を取っていた。

たぶん理系で、しかも、基本は教科書至上主義(目標は国試合格なのでそこだけはどんな変な教授がいてもあまりブレない)だったからそれなりの成績で卒業できただけで、ヘンな教授の独特な世界観や、講義でぽろっと言った言葉をそのまま理解しないとどうにもならないような専攻だったらまず間違いなく落第していた気がする。

 

その日も私の魂は授業中にすっかり抜けていた。

天気の良い日で、暑くも寒くもなかったように思う。

講義の前半はあまり記憶がない。

 

しかし、後半は違った。

その日、普段は飄々としたその教授は珍しく怒りに満ちた声でスモンに関して熱く語った。

 

スモンというのは、日本最大の薬害と呼ばれている「薬が原因となった神経障害等の病気」である。

海外ですでに有害であることが分かっていたキノホルム、それを当時の厚生省はなかば容認する形で見逃し、1万2千人を超える人々が歩けなくなったり、見えなくなったりして取り返しのつかない絶望を一生味わうことになった、というのがスモン薬害である。

(これを機に薬物の安全性や有効性をきちんと評価・共有するようになっていったのは当然の流れである。)

 

とまあ、上記のようなことはどこにでも書いてあるし、知識としては別に特別なものではない。

しかし、そこからの教授の話は違った。

 

薬害の犠牲になった知人の話(若くして下半身の感覚を失うことの絶望、原因不明の奇病に対する周りからの差別、本来防げたはずの事象発生に対する言葉にもならない思いなど)を一通り話して、こう言った。

 

「薬はリスク、と、この業界にいれば何度も聞きます。実際そうです。そして、患者さんの人生の直前でリスクを最小限にしたり、防いだりできるのがあなたたちのほとんどがこれからなっていく臨床薬剤師です。」

 

 

似たような話は薬学部にいれば何度も聞く。

けれど、その日の教授は顔を赤くして、冷静で、それでいて激高するような調子でそう言った。

 

 

「幼少期からの夢」みたいなキラキラした感じで薬剤師になりたいと思っていたわけではない、不真面目でちょっと器用にテストを乗り越えてきた私を殴りに来る、そんな講義だった。

 

 

結局、私はその教授の研究室に入って、卒業をしたわけだが、あんなに昂った教授の顔はその後見ることはなかった。

 

 

不真面目でおっちょこちょいな臨床薬剤師ではあるが、「患者さんの人生の直前でリスクを最小限にしたり、防ぐ」ということだけは忘れずに仕事しているつもりである。

 

 

尤もらしいことをこれ以上書くと明日からが辛くなりそうなので、おやすみなさい。

 

 

高齢者の医療費に関して思うこと

とにかく難しい。

 

現在、基本的に高齢者の医療費は収入に対してナンボ、となっている。

 

なので、若い人たちよりバチクソ資産を持っていて、めちゃくちゃリッチな高齢者でも、年金暮らし(資産あるからべつに無理して働かなくても大丈夫だし)だと「低所得者」となるから、自己負担にはかなりの補助というか福祉的配慮というか、そういうのがもろもろかかってきて、お支払いは1ヶ月分のお薬(ビニール袋パンパン)で1000円です、みたいなことになってくる。

そもそも1割負担だし。

 

若い人だとそもそも3割負担だし、全く働いていない人ってのもそう多くないので、日々の暮らしは相当しんどくても、貯金はなくても、所得税を払う程度に稼いでいる人なら1週間分の風邪薬程度でもほぼ間違いなく1000円以上にはなってくる。

 

あと、生活苦しいから、と年老いてからも働き続けると、収入ありますよねー、自己負担金増やしまーす、ってなるのも辛い。

インフルエンサーみたいに「どんどん生保使えばいいんです」とはいかないのが事実で、ナンボか働けたり、ナンボか車や家があったりしてもいけないし、本人の意向や家族の考えも大きく関わるからそう簡単ではないのは理解できる。

生き甲斐として仕事してる人もおるわけで、収入あったらアカーン、ってのも変な話。

働けるうちは社会との接点はあった方がいいもんですし。

ボケるでな。

(働くとペナルティー、的なのは認知症大国にとってどうなんかね。)

 

このへんがもう本当にどうしたらいいのか分からない。

 

資産を一元的に見る手段があればいいけれど、それって恐ろしい事態でもあるし、かといって、日々の暮らしに青息吐息、結婚もできない子供も持てないとにかく余裕のない若者から税金むしり取ってリッチな悠々自適シニア層を養うのもおかしい。

 

老後を思って、家族に迷惑はかけまいと一生懸命つつましやかな生活をしてきたシニア層、結局関係ない国民のおんぶに抱っこで老後を暮らしているパターン、結構多い…というか、最近特にそれをよく見る。

 

今の高齢者、ある程度は今後の少子高齢化とか、バブル崩壊とか、もう見えていた世代だから、貯めるものは貯めているわけよ。

 

 

分かってますよ、もちろん。

カネモチ若者もいるし

ビンボウ高齢化もいるし

収入が一般的に乏しくなる高齢者を若者が支えよう!というのは必要だしありがたいシステムだと思う。

そこに文句言ってるわけではないのよ。

 

ただ、余った資産が結局金持ち一家に注がれて、貧乏人は貧乏人、金持ちは金持ちで格差がゴリゴリ広がる、と思うと、相続税は実は国全体の児童福祉や教育に回すべきなのでは、と思ってしまう。

 

相続税って国家に入るから、使途は勝手に決められる予算なのよね。

いくらかはそうあるべきだと思うけれど、世代から世代に受け継がれていく性質上、ある一定の割合は世代をつなぐことに使われるべきではないのかなー。

 

今も使われているけれど、明らかに比率が低すぎるし、そのときの流行り廃りで外交だ地方だなんだかんだとフワフワ使途が変わりやすいから、なんか納得がいかない部分があるのよねぇ。

 

もや、もや。

思い出は古銭のように

思い出が妙に大事に感じられることが多くなった。

 

恋心なんかは特にそうで、時が経てば経つほど甘く感じられたり、当時苦かった記憶も味わい深く感じられたり。

 

目が合うことが多いなぁ、と思ったら、それなりに仲良くなれたささやかな恋(友情に毛が生えた程度の)のことだったり

 

今考えても何故あんなに好きだったのか分からない、特に何もそれ以上エピソードのない、親しい友人にすら公言しなかった、あの人へのあこがれ、だったり

 

異なる学校に進学して自然に消滅した微笑ましいお付き合い、だったり

 

その他いろいろ。

書き出してみて、自分で思っていたより色恋沙汰が多かったことに驚く。

 

 

古銭のように、往時の輝きよりも今の存在そのものに価値がある、そんな記憶が増えた。

古銭は古銭のままどこかにあたためているけれど、とっくのとうに現在の貨幣は変わっている、そんな感じに似ている。

価値がわかる人には垂涎ものの古銭もコンビニで出したら訝しがられるか断られる、みたいに、あの時を生きていた私から見ると思い出たちはキラキラして見えるのに、今それをエピソードとして垂れ流しても「ありがちな話」なんだろう。

 

別に火遊びしたいとか、今がつまらない、ということではないんだけれど。

加齢かなぁ。やだなぁ。