大三島に移住した某薬剤師の脳みその中

生き物らしく生きたい!と思い大三島へ。毎日が冒険。

薬剤師の使い方

よ~~~~~く聞く話として

「薬剤師なんて薬の袋詰めをしているだけ」

というのがあります。

 

まあ、調剤薬局で働いている実感として、たしかに仕事の1/5ぐらいは袋詰めかもしれない。

そこは認めます。

 

でも、よく考えたら、そもそも論としてですよ、

「みんな薬剤師の使い方を知らない」

んだと思うんですよ。

 

病院で処方箋をもらって、

薬局に持っていって、

待ってたら薬が出てきて、

ありきたりな説明を聞いて、

お金を払って帰る。

 

それだけなら、印象としては「薬剤師って薬を袋詰めしているだけ」って感じだと思います。

 

 

でも、案外薬剤師って勉強してたりするんですよ。

利用しないと損!

 

まず、6年間も学校に行って、最低限の生物、化学、物理、数学、医療に関する法律や病気に関する知識は一度は身に着けています。

もちろん現場に出て使わない知識は忘れていきますが、ベースとして比較的網羅的に学んでいるのは確かなことです。

そうじゃないと国試に落ちる。笑

 

膨大な量の薬のなかでも特に自分が良く取り扱うものの基本的な効能や使用法ぐらいは理解していますし、その数は100品目や200品目とかいうレベルではなくて、かなり小規模な薬局でも500品目、大きい薬局だと1500品目ぐらいは日常的に取り扱っています。

 

お医者さんと違って、「私は外科!」とか「私は内科!」といった専門分野はないので(対応してきた処方箋の内容や勉強してきた内容によって理解の差はありますが。)、医師ほどの知識の「深さ」はないにせよ「広さ」はあります。

 

 

ここで提唱したいのは、「薬剤師に質問する」ということ。

なんでもいいんです。

「なんでこの薬が出たん?」

「テレビでやってるあの健康食品、どう思う?」

「この薬って何の薬?」

「夫と同じ病気なのに私は違う薬を飲んでいるのはなぜ?」

などなど。

 

大混雑している薬局や、時間帯では十分に対応できないこともありますが、ちょっと暇そうな時間だったら対応してくれると思います。

というか、「さっさと出してくれて何も答えてくれない」のがいいのならそういう薬局や薬剤師のもとに通えばいいし、「質問に真摯に答えてくれる」のがいいのならばそういった薬局や薬剤師のもとに行けばいいんです。

患者さんによって希望は違うと思うので。

 

で、相談しやすい薬剤師や、相談したときに納得できる返答をしてくれる薬剤師を見つけておくと何かと便利です。

身近な健康相談相手として、たぶん、たぶんですよ、隣のおばちゃんや、怪しい雑誌の宣伝なんかよりはずっと正確だし、個々の状況に応じてきちんと対応してくれると思うんですよ。

 

たとえば

 

「グルコサミンやコンドロイチンが軟骨のすり減りにいいって聞いたけれど、実際どうなんかねぇ?」

なんて聞かれたら、私なら、

「効く、という信憑性のおけるデータは出ていません。理論的にも胃や腸でバラバラにされているはずで、軟骨成分を飲んでもそれが軟骨になるわけではないと思いますよ。よっぽど栄養失調でタンパク質とかが不足しまくっているとかならば栄養の補助にはなるかもしれませんが、それも普通に肉や魚食べたらいい話ですし、高いお金払ってわざわざ軟骨成分しか含まれていないサプリを取ってもねぇ…。おまじないとして飲む分にはまあそう大きな副作用も多数報告されているわけではないのでいいんじゃないですか?」

とか身も蓋もないことを平気で言うタイプです。

 

それでも、「相談してよかった」といわれることも多いですし、「はっきり言ってくれるから納得する」という方とは割と良好な関係を築けていると思います。

もちろん、精神的に疾患を抱えていたり、ご自身での判断が難しそうな方にはこんな言い方はしませんが。

 

 

処方に関しても「良い」とか「悪い」という判断はしませんし、そんな言い方は絶対にしませんが、

「こういう検査の結果を重視するとこの処方がされることが多い」

「この薬にはこんなメリットがあるのでおそらくそういったことを先生は重視しているのでは?」

「最近の治療方針ではこういったデータが出たという報告からこの組み合わせで処方を組み立てるのが一般的」

といった言い方で、なるべく納得して薬を飲んでもらえるように「聞かれれば」説明をしているつもりです。

 

 

 

そうなんです、「聞かれれば」なんですよ。

あんまり聞きたくない人にわざわざ長い説明をするのはかえって逆効果なので。

聞いてほしいところすら聞いてくれなくなるので。

最低限のことを質問・確認して、説明・注意して、ハイ、さようなら、のほうがいいんです。

 

だからこそ、ぜひ、薬剤師に「質問してほしい」んです。

質問されなければ真価を発揮しにくいんです。

 

 

 

いろいろ質問されたら、

「どうしても薬の数を減らしたいならばコレとかコレは優先順位としては低そうなので、先生と相談してみる価値はあるかもしれません。あと、これは実は粉じゃなくて錠剤もあるのでそっちのほうが飲みやすいかも?もしよかったら先生にお手紙書いておきますよ??」

とか

「こういった運動とか食事とか習慣を変えることが症状改善につながる可能性があるので、試してみてもいいかもしれませんよ。」

なんて返答をすることもあります。

(こういった内容になると医師に処方に対する難癖ととられる可能性もあるので、患者さんが板挟みにならないようによく考えて、状況を見たうえで言うようにはしています。)

 

 

 

薬剤師も個々のシチュエーションもさまざまなので、いろんな返答のパターンがあります。

そこで大事なのは、その返答をきいて「この薬剤師は使えそうだ」と思うか、「この薬剤師はポンコツ…」と思うか、そういった素直な気持ちだと思います。

 

 

 

たとえば、私の返答は正直やさしさには欠けることが多い、と自己評価しています。

先述のようなやりとりでも、「膝の痛み、つらいですよね」とか「最近よく宣伝してますもんね、頼りたくなりますよね~」とか言えたらいいのに、どうもそういうフワッと優しいセリフはあんまり出てこないほうです。

まずは受容、傾聴…心に留めてはいますが、まあ、素質や性格の問題もあるので、おっとり優しい系薬剤師にはおそらく一生なれません。(見た目の問題も大きいですよね。人は見た目が9割というのも事実。)

 

それが嫌な患者さんはそれはそれでいいと思います。

相性って絶対あるので。

人でも動物でも物でも。

 

 

 

気に入った薬剤師は「かかりつけ薬剤師」にしてもらえると嬉しいです。

 

「かかりつけ薬剤師」は制度としても実はあるんですよ。

要は指名料を払えば基本その薬剤師があなたの服薬情報を一元的に管理しますよ、といったものです。

ですが、必ずしもこの制度上の「かかりつけ薬剤師」を使ってください、ということではありません。

(もちろん指名料払ってまで私を使ってくれる患者さんには感謝感激雨あられですが。あ、指名料は別にその薬剤師に払われるものではありませんよ。あくまで「一元管理」の手数料です。)

 

いつもの薬をもらいに行くときに、手が空いてそうな感じなら「お気に入り薬剤師」に声をかけて、ちょっとした質問をしたり、体調を伝えたりしてくれると嬉しいんです。

身近な健康相談相手としてうまいこと薬剤師を使ってほしいなぁ。

そう思ってやまないのです。

沸々とした感情

たまーに湧き上がる沸々とした感情がどういったものなのか、いまだによく分かっていないのでとても困る。

 

 

そもそも、前提として、私は自分の周辺1メートル以内ぐらいの事にしか興味がないし、それより外のことが気になる時は厚い壁に潜望鏡の様なものを突き立てて見ている感覚がある。

 

そのため、基本的には感情はそこまで揺れ動かないことが多い。

 

潜望鏡で見る世界は自分で選べるので、あまりにも心を揺り動かされることからは、もはや生存本能的な感じで目を逸らしたり、潜望鏡を壁から引き抜いてしまうから、というのが一つの理由。

潜望鏡で見る世界は、音や、匂いや、触感など、色々なものが欠けていて、不完全なものだから伝わりにくい、というのがもう一つの理由。

 

潜望鏡から覗いた世界に安直な感想を抱き、一丁前に意見したりすることはあるけれど、ダイナミックな心の動きというものは、正直、ない。

 

 

もちろん、壁の中の事件、世界から見たちっぽけなアレコレには涙も流すし大笑いもする。

けれど、いかんせん範囲が狭いので、そこまで事件の発生頻度は多くない。

壁の中に自ら入れるものは厳選に厳選を重ね、快適なものが多いし、意図せず放り込まれる不快なものはなるべく排除するなり埋めるなりしようとするので、その時はそちらの作業に気が取られて、心ここに在らず、になる。

よって、感情の動きはあまりない気がする。

 

 

前述の沸々とした感情は、何やら大変強いもので、壁の中の小さな私を大きく揺さぶり、熱くする。

壁の中はほどほどに快適で、壁の外を見るべくやたらと潜望鏡を立てている状況でもなく、これといって大きな事件もないのに。

 

 

可能性の一つにあるのは、壁の中の排泄物が発酵した、というもの。

いろんな感情や感想の澱や、それこそ生きていれば出てくるフケのような老廃物、そんなものが狭い壁の中で腐って、熱を持って、心が炙られているようになっているのか、なんて思ったり。

 

 

でも、やっぱり何なのかよく分からない。

頑張りたいような、怒りたい様な、壊したい様な、そんな感覚。

 

 

 

不惑はまだ遠い。

医薬分業ウゼェ論に対する見解

医薬分業ウゼェ論がけっこう出ているので、ちょろっと個人的な見解をひけらかします。
異論は大いに認める。

 

 

 

医薬分業のはじまりは神聖ローマ帝国のフリードリヒⅡ世(1194~1250年)が毒殺を怖れて、主治医の処方した薬を別の者にチェックさせたのが始まりと言われているけれど、改めてこれ、結構大事やん、と思うんですよね。

 

死亡診断書を唯一書ける存在である医師が、薬を自分で扱えたら…仮に意図的な毒殺でも「自然死でーす♪」と書いたらハイ完全犯罪の出来上がり。

 

もちろん、今の医師達にそんなヤバいヒトはおらんと思っているけれど、「不自然な処方」に歯止めをかけることは必要だし、医師が社会的にも力を持っている以上、ある程度知識を持ちつつ権利を保障された存在が「それはアカン」と言わないと捻り潰される可能性もあるわけで、「お互い頑張りましょう」というテイで見張り合いをしているのが一番平和なのかなと思っています。

 

医薬分業にすると薬局が遠い!
院内薬局でええやん!
…というのは尤もで、特に子連れの時とか身体的に移動が辛い時などはマジで院内薬局にしろや!と思うのは事実です。


(院内処方、ビビらす訳では無いんですが、薬剤師おらんところのやつ、たまにありえんミスがあるので気をつけてください。薬剤師がいたら良い、というよりは、チェック体制が薄いのは事実なのでミスが起こりやすいし見つかりにくいんですよね。)

 

これに関しては「家の近くのかかりつけ薬局で!」と国はうるさいですが、海の向こうのホームドクター制などを参考にかかりつけ薬局選定を半ば強制にしないと無理だと思います。


かかりつけ薬局構想は悪くないと思うんですよ、施設配達とか在宅とか今後避けて通れないことも色々ありますしね。


でも、「いろんな病気であっちこっち病院かかってそれぞれいろんな薬局行っている人」が急にウチに来て配達在宅ヨロ!となってもそれは無理ってもんです。

 

現実的に考えて、配達も「隣の県まで行きます!」みたいなのも無理だし、すぐに対応出来なきゃかかりつけの意味もないので、ある程度のエリア内でかかりつけ薬局を指定して毎回来てもらう、みたいなシステムにしないと実効性はないままだと思います。

 

 

そんなこんなで、医薬分業って見張り合いという意味で必要だけど、利便性は確かに難あり。かかりつけ薬局は構想的には悪くないけど実効性が薄いからなんとかならんのか、といった気分です。

 

まあ、もちろん、AIがもっともっと進化すれば、見張りなんてAIにさせても良いんですが、そうなってくると診断もAIにしてもらったほうが良くなるわけで、医師も知識労働者というよりは肉体労働者になってくるんじゃないでしょうか。

 

その時薬剤師は何してるんですかね。
たぶん配達屋とかの肉体労働者になっているんでしょうね。

 

そうなったらたぶん私は適当に見切りをつけて子供や生き物や草花を育てるほうにシフトすると思います。


大三島移住はその為の布石なんだよフハハハハ!

なーんてね、もちろんそんなこと何にも考えちゃいませんでしたよ。笑

医療の近未来、クソ予想

近未来の話。

 

個々の処方からお薬マニュアルをシステムが瞬時に作って、薬剤師はそれの同意取り係になる未来が見える。

一昔前のケータイ屋みたいに、書類を大量に並べられて、おもくそ早口で説明されて、よく分からんままアレもこれもチェックさせられて、サイン書かされて、ここからは態度一変、一昨日来やがれ、みたいな感じで、さ。

 

患者さんの特性によって理解度や視力聴力などの問題があるので、そこのアジャスターをヒトがやるだけで、情報の基本は機械任せ、というのがわりと現実的な近未来のような気がする。

 

 

確かに、医療も契約だと考えれば非常に合理的だし、責任の所在がはっきりする。
患者サイドとしては「ゆっくり確認できるモノ」があると安心だし、医療者サイド的にも「100%はありえません」と書いときゃまあ訴訟問題になったとしてもいくらかのクッションになるわけで、それはそれでいいんだけれど。

 

ある意味対物業務から対人業務、なんだけれど。
ディストピア感、ね。

 

 

でも、実際もう労働者はどんどん減ってるし、その割に高齢者は捌ききれないほどいるし、どこか機械に頼らないと首が回らない。
すでにネット医薬はこんな感じになってきているし。

 

なんかひっかかるやり方だけれど、この方法はやり方によってかなり有効な気がする。
アジャスターにこそ人間性が出るし、本来の医療の姿があるような気もする。

 

 

 

医師の働きに関しても似たような事を感じている。

若い患者さんはネットで自分の症状色々調べて、心の底では「この病気ちゃうかな」と思って病院にかかってる。
医師に「この病気ちゃうで、ただの風邪や」みたいな事を言われると「あのヤブ医者め」になっている。
そして次の病院にかかって、ドクターショッピングが発生するし、「魂の穢れです!」みたいな絶対に完全には否定できないような非科学的なことが流行ってしまう。

 

必要なのは正確な診断、適切な処置、は当たり前として、それを患者に適切に説明する事、だと思う。

 

インフォームドコンセントと言われて久しいけれど、手術同意みたいなイベントに対するインフォームドコンセントはまだ分かりやすいとしても、日々の診療に対する患者さんの感想は「先生は何も言わん」「何の病気か分からんけど薬が出るから通ってる」「痛くも痒くもないから薬は出てるけど飲んでない、通院してない」「何の治療しよるんか分からん」「先生忙しそうやから相談できん」というものが多い。
時間不足、コミュニケーション不足。

 

 

いっそのこと問診や、表面的に検査値をさらって病名候補を挙げるところまではある程度機械に任せるとかして、最終的に診断をつけて治療の方向性を決めたり、それを個々の患者にわかる形で伝えるのが医者であって欲しい。

はい病名、はい薬、さよなら…ではなくて、病名と薬はナンボか機械任せだけれど、最終その病名と薬になった理由や今後の方針に納得してもらうために尽力する、そこのプロセスに付き合えるのがプロのコンサルだと思う。

 

 

 

もちろん、そんなことは少し先の話で、まずは諸々のくだらない書類仕事やハンコ仕事みたいなものが消えて欲しいんだけれどね。

ディストピアユートピアになる近未来は来ないものかなぁ。

 

 

 

つらつらと書くとまとまりがない文章になるね。

ひどい文章だわ。

おやすみ宇宙。

 

ぐーだぐーだの必要性

たぶん、そこまで親しくはない人とメシ食ったりしてぐーだぐーだする時間は人間にとって必要な時間だと思う。

 

どこ出身なの?とか、
今までで何が一番美味しかった?とか、
おすすめの映画は?とか、
最近何してんの?とか、
そういう感じのとりとめもない話を聞いたり、したり。

 

そういう話を通じて、その相手を好きになったり嫌いになったりする。
それによって、普段一緒に暮らす人たちがより好きになったり、まあこんなもんか、と納得できたりする。

 

ずっと好きな人たちといても、いかにそれが恵まれたことなのかも分からないし、だいたいあら探しして自分から嫌いになりに行ったりしてしまうから、それをなんとかしたい。


嫌いな人のことはもう嫌いなところばかり目についてしまうんだけれど、おそらく「世の中でただ1人の私の嫌いなことばかりをする奴」なんてのはいないはずなので、「まあよくある嫌いな奴」だと思えば気も楽になるし、その人にも多少は優しくできる、あるいはイライラせずに距離を取れる気がする。

 

 

昔ながらの文化によくある、来るものは歓待し、別れはサラリと、というのはそういう事のような気がする。

 

超運動嫌いと犬

超が付くほど運動が嫌いです。

思い返せば、子供の頃から「身体を動かすと楽しい!」という感覚を味わったことがないように思います。

休み時間にドッジボールをするぐらいなら教室で本を読んでいたいタイプ。

運動会や体育祭の日は毎回学校燃えろとまで思っていたぐらいです。

 

こうなったのには原因があるのか、と考えても、あまり思い当たることがありません。

人前で跳び箱を失敗するのが恥ずかしかった、いつまでたっても逆上がりできないのが恥ずかしかった、いじめっ子でたいして勉強もできないやつがリレーの時だけ英雄みたいに扱われるのが嫌だった、体育教師が声だけデカくて中身がない感じで嫌いだった、みたいなエピソードは沢山あるのですが、体育が嫌いだっただけで、運動が嫌いな理由にはならないようにも思えます。

 

そもそも汗をかいたり、息が上がって心臓がドキドキすることに「さわやかさ」というものを感じたことがないので、もうこれはただただ運動嫌いなんだろうとしか思えません。

運動しても疲れるだけじゃん。

 

比較的、自転車は好きなのですが、それは「歩いたり走ったりするより明らかに速く、楽に動けるから」という不純な動機が根底にはありますし、水泳に関しても「暑い時に身体が冷えるのは楽だから」というどうにもならないグウタラな理由があります。(なので、寒い冬に泳ぎたいとまでは思いません。プール後の温泉があればまあ行ってもいいかな、という程度。)

登山も嫌いじゃないですが、これも「山の生き物や風景を見るのが楽しいから」という感じで、生物の少ない雪山や天候が悪くなりやすい高山に登りたい、という希望は全くありません。そしてなるべくポイントギリギリまで車などで登りたい。

 

娘や犬を見ていると、意味もなく走ったり、飛び跳ねたりするのが随分と楽しいんだな、と思います。

完全に、謎の世界。

 

世の中には身体を動かすことが楽しい、という人が結構いるようで、「しばらく運動で汗を流してないと気持ち悪くなってくる」みたいな事ですら言うじゃないですか、そう言う人たちって。

どんな気持ちなんでしょうね、本当に信じられない。

 

 

 

先述の通り、我が家には犬がいます。

一歳半ぐらいの保護犬。

親バカですが美男子。

(ただしテンション上がると噛むのがなかなか治らない。)

f:id:morimi2016:20230409230609j:image

 

犬はめちゃくちゃ好きなんですが、不安だったのは「散歩に毎日行けるのか」と言う事。

時間や体力の問題ではなく、そもそも運動嫌いなので、歩くのが嫌、というヘタレな理由。

 

がんばる、という最も役に立たない決心をして、飼い始めて、結局…

 

 

毎日歩いてます\\\\٩( 'ω' )و ////

 

 

いやー、犬の散歩、楽しいですね。

犬が楽しそうなのがまず良い。

毎日いろんな発見があるのがまた良い。

ついでに体力がついて、体調にも多少プラスの効果があったのも良い。

 

季節の移ろいを感じつつ、ご近所さんとの出会いなどを楽しむ1日30分〜1時間 × 数回。

超運動嫌いなくせに、たまに走ったりしているのが嘘のようです。

(とはいえ、基本息が上がるほど負荷はかけない主義。2〜3分走って10分歩く程度のユルさ。)

最近始めたピクミンブルーム(歩くとなんかいろいろ育つ系のゲーム)、あっという間にレベル30になってしまうほど。

 

犬には感謝しています。

超運動嫌いの私を運動させて、しかもそれを楽しく感じさせているわけですから。

やるな、犬。

 

 

今朝は大きなウナギを飲み込もうとして悪戦苦闘する鵜を見つけてめちゃくちゃ楽しかったです。

犬と散歩してなければまず見る事はなかったでしょうね。

 

運動自体の楽しさ、気持ちよさは未だに分かりませんが、なんか身体を動かした後は頭がスッキリして楽、みたいな感覚は分かりつつあります。

三十路を超えて運動が楽しくなってきてるのかもしれません。

 

 

自分の御機嫌取りの話

自分の御機嫌をとれるようになりたい。

 

 

子供は自分の御機嫌とりができません。

楽しいお出かけでもキレ散らかしたり、厳粛な場でも大笑いしたりする。

これは主に高度機能を担う大脳が未発達で、経験や知識の集積が不十分だから、と考えられます。

 

高齢者も同様。

特別扱いされないと怒り、他人の目も顧みず謎のマウントを平気でとる。

やたら機嫌がよくなる人というのは比較的まれで(たいていそういう人は昔からあまり細かいことにうるさくない人だったり、他人にあまり興味がない人だったりする)、だいたい僻みっぽくなったり、怒りやすくなる。

これは大脳辺縁系の「不安」「怒り」といったネガティブな感情が学習により比較的豊富に存在して衰えない割には大脳皮質などのそれを理性でコントロールする部位が衰えてくるから、と考えられます。

身体の不自由や寿命への不安・怒りは消せない、というか、基本的には増大するほかないので、ある意味仕方ないととらえる他ありません。

 

 

人間も生き物なので、基本的には「嬉しいこと」よりは「嫌なこと」をしっかり覚えていると思われます。

嬉しいことを覚えるのは確かに大事ですが、基本的には「嫌じゃなかったこと」と「嫌だったこと」を覚えることにかなりのリソースを割いていると考えるほうが自然でしょう。

すごく美味しくて嬉しい食材を覚えることより、お腹を壊さない食材、お腹を壊したり最悪死に至る食材を覚えることのほうが生きていく上では重要。

風景が良かったり木漏れ日が気持ち良い道を覚えることより、怪我をしなかった道や外敵があまり出てこない道、あるいは過去に怪我をしかけた道や外敵と出くわした道を覚えることのほうが重要。

 

 

人間の特殊性を語るうえでトピックとなることはいくつもあるけれど、個人的には「人間は不快から快楽を自分で作る」というのが非常に好きです。

生き物だって快楽は求めるのですが、上記のように、基本的には重要度的に「不快>快楽」です。

温泉に入るサルも外敵が見えたらパッと飛びのくし、くつろいでいた犬も注射されるとわかった途端に怯えたり怒ったり逃げたりします。

不快なものは不快、非常に素直な反応です。

 

人間は不快を大脳皮質の力で快楽に捉えなおせるのがかなり異常です。

「健康のためだから注射は痛いけれどやってよかった」「仕事はつらいけれどお金がもらえるからOK」とか、当たり前のことだけれど生き物的には異常。

基本通常の生物ならば「不快」ととらえて忌避することを、脳の力で「快楽」ととらえなおしてやっちゃうところがだいぶトチ狂ってます。

 

 

ということで、私も人間なので、日々不快を脳みそイリュージョンで快楽と変換してなんとなく幸せっぽく生きているわけですが、やっぱり辛いことが多いんですよ。

 

あったかくなってきたのに寒い日があると辛い。

花粉が飛びまくると辛い。

仕事が忙しいと余裕がなくて辛い。

遊ぶ時間がなくて辛い。

その他いろいろ。

 

自分で自分の御機嫌取りをするのにもエネルギーがいります。

脳の高次機能をフルパワーに働かせ、本能的な脳を欺き続ける必要があるんですよ。

 

こういうときって、結局最高の御機嫌取りは「寝ること」「まともなものを食べること」「ほどほどに体を動かすこと」「室温や明るさや匂いなどを好みのレベルに整えること」でしかなかったりしますね。

素晴らしい芸術に出会っても、心躍る本を読んでも、血が沸くスポーツを観ても、その時一瞬だけ脳のリソースをほぼそちらに全振りして辛さを感じるリソースを減らしているだけで、またふとした瞬間にかえって辛くなったりするんです…。

脳の高次機能分野の基礎体力をレベルアップする、という方法もないわけではないんですが、わりとそれって賭けな部分があって、遺伝的な要因にかなり左右されるし、通常の「勉強」と一緒で、適切な負荷とその反復を繰り返す必要があるんですよね。

なかなか簡単にはいかないと思われます。

 

結局、今の自分が持てる脳の「欺き力」をそれなりの力で発揮させ続けるのが一番現実的だと思っています。

そのためには結局、眠りや健康面で脳を応援するしかないな、という結論に最近は落ち着いています。

脳をいたわることが人間らしく生きることなのかな、と思うので、寝ます。